“写真はまた生き返る” 対談 森山大道 × 北村信彦(Hysteric Glamour)前編
2022.05.10

1993年の伝説の写真集『Hysteric No.4Daido Moriyama』と、2022年の『DAIDO HYSTERIC』を巡る歴史的対談




Edit&Text by Yukihisa Takei (HONEYEE.COM)
Photo by Keisuke Nagoshi (UM)


300部が生んだ歴史

Hysteric Glamourが1993年に発行した写真集『Hysteric No.4 Daido Moriyama』のリイシュー版が、東京・原宿のGallery COMMONとAkio Nagasawa Publishing の共同出版により限定部数で発行され、2022年4月29日(金)から同ギャラリーにおいて“DAIDO HYSTERIC”と題した写真作品の展示が開催された。

通称“青Daido”と呼ばれる93年版の写真集は、当時わずか300部という発行部数だったが、発売直後から大きな反響を呼び、現在では中古市場でも伝説的存在となっている。

その発行から29年、この写真集に強い影響を受けた若きギャラリスト・新井暁は今回900部のリイシュー版の刊行と写真展の開催に向けて奔走し、その想いを実らせた。その後の日本におけるアート×ファッション、写真×ファッションだけでなく、世界的な人気を誇る写真家・森山大道作品を語る上でも重要作品と言われる“青Daido”。

今回の発行と写真展を機に、森山大道と北村信彦による久しぶりの対談が実現した。HONEYEE.COMだけのエクスクルーシブ・インタビューを前編・後編に分けてお伝えする。



“森山さんの写真からは色んな音が聴こえてきた”

写真展のレセプションの数時間前。森山大道と北村信彦はこの対談のために前入りでGallery COMMONにやってきた。実に10数年振りの再会を歓び合う二人は、飾られたばかりの作品たちを確認し合い、しばしの談笑の後、インタビューに臨んでくれた。

  最初にお聞きしたかったのですが、93年当時においてこの写真集の300部という部数は多かったのですか、少なかったのですか?

北村信彦(Hysteric Glamour) : いや、当時のウチ的にはギリギリの数でした。作りすぎると捌き切れないかもしれないと。それまで出していた写真集の3号は非売品だったけど、森山さんの作品集ということで、限定で販売しようと初めて値段を付けたんです。

森山大道 : 知らなかった。300部っていうのは初めて聞いた。もう少し出しているんだろうと思い込んでいた。

 北村さんは、森山さんの作品にどのように惹かれて行ったのですか。

北村 : この写真集シリーズを始めた頃(1991年)は、森山さんの存在を全く知らなかったんです。最初は身近な写真家の方に声をかけたり、紹介いただいた写真家の方にお願いして2号くらい続けていくうちに、「このまま続けてどうなっていくんだろう」と不安もあって。その頃に一緒にこのシリーズを始めた(写真家/キュレーターの)綿谷(修)から、彼の八幡山の家で花見やるからって言うので訪ねて行ったんです。すごく天気のいい日、桜も満開で、空もブルーでものすごい綺麗な日だった。そこで「ちょっとノブに見せたい写真集あるんだけど」って見たのが森山さんの『光と影』(1982年)と『写真よさようなら』(1972年)という写真集で。

 森山作品の初見の印象は?

北村 : もうビックリしたというか。こんな作家が日本にいるんだと。僕はもともと音楽が好きで、写真に関しては好きなバンドのレコードジャケットを誰が撮ってるのかなくらいの認識しかなかったんですけど、森山さんの作品は衝撃でしたね。何かもう粒子も何も爆発しているし、ページをめくっていると、いろんな音が聴こえてきたんです。この人と写真集でご一緒できないかという話になって、後日綿谷が森山さんの門を叩いたんです。



“ファッション写真なんてつまらないから写真集を作ろう

 逆に森山さんの方は、Hysteric Glamourというブランドは当時ご存じだったのですか?

森山 : ブランド名は知っていました。なんとなく。

 洋服ブランドであるHysteric Glamourとして写真集を出したいというオファーは、写真家としてはどうお感じになったのですか。

森山 : 話をもらって彼らの最初の写真集を見せてもらいました。今見たら面白いんだけど、その当時は僕もツッパっていたから(笑)「何これ?」と言っちゃったよね。でも綿谷さんから話を聞いているうちに、「オレで1冊作れるんだったらやるよ」と。北村さんと綿谷さんで話をしてくれたんでしょう。それで森山で1冊やってみるかという話になった。まさかこんな分厚い本ができるとは思わなかったけど、僕としては嬉しかった。それは写真雑誌の関係とかじゃない、全く関係ないジャンルの人から要請を受けたのというのが単純に嬉しかったね。

 Hystericの服が載っていたりするわけでもない写真集ですが、当時はこういうファッション×写真家みたいな前例はあったのですか?

北村 : 当時だと山本耀司(Yohji Yamamoto)さんとか、川久保玲(COMME des GARÇONS)さんとかが、ただの洋服カタログじゃない作品集的な本とか、『Six』のようなアート本を出していたので、それに触発されたのが最初です。それまでは服をモデルに着させてメキシコだとかグアテマラだとか、アメリカ横断したロケとかに行って撮った写真をシーズンカタログにまとめていたんです。でも数回やったけど、結局どのロケーションでどんなモデルが着ても、撮る人で全て変わるんだなって思った。そんなときに知り合いの写真家の方の引っ越しを手伝いに行ったら、奥の方から『provoke(プロヴォーグ)※中平卓馬、高梨豊、多木浩二、岡田隆彦らによって創刊された写真同人誌。1968年創刊。森山大道も参加』だとか昔の本が出てきて、それを見て、こういう形もあるんだと。もうファッション写真なんてつまらないから写真集を作ろうと思って始めたのが1号目です。

 ブランドの服が出てこない写真集というのは、当時会社的に認められたのですか?

北村 : 2号目3号目を作っている間は、会社の連中とかから「北村は何やってんだ。大丈夫?」と言われていたのが、森山さんとお会いすることができて、この本ができてからもう見方が180度変わって。

 それはなぜですか。

北村 : 最初はファッション誌、それからその後に新聞が取り上げてくださったんですよ。当時Hysteric Glamourが洋服のブランドとして新聞に載ることなんてまずないですから。そこに自分たちのブランドが出ているということで、会社関係も役員の連中もやっと認めてくれたというか。



構想から発行まで約2年

 最初の写真集を出した時の北村さんの年齢は29歳か30歳。“青Daido”の出版当時31歳で、森山さんは出版当時54歳か55歳でした。

森山 : そんな歳になってた?

 昔はもう少し若者も成熟していた時代ですが、それでも当時30にも満たない若いファッションデザイナーが、自分より4半世紀も上の写真家にお声がけするというのは、すごいことだと思うのですが。

北村 : お会いする前に作品集を見ている時は、難しい人なのかな、怖い人なのかなという緊張感はありましたけど、実際お会いしたらものすごく優しいし、写真以外の話でアンディ・ウォーホルの話とか、色々教えていただきましたね。

 森山さんは北村さんの最初の印象は覚えていらっしゃいますか? 

森山 : もちろん覚えていますよ。若者とかいう印象よりも、写真の本を作ろう、僕の本を作ろうと言ってくれるこういうファションの人がいるんだ、と思ったね。僕は当時から写真プロパーじゃない人とやりたかったの。写真雑誌とかそういうスタティックな場所じゃなくて、もっと別の場所で写真が出てくれるといいなと思っていた。僕はTシャツのデザインとかそういうのが好きだし。北村さんとお会いして、僕自身もそっちの方に気持ちがどんどん動いていく感じというか、「ああ、何やったっていいんだ。やらせてくれるんだ」と思ったよね。

 “青Daido”の作品は、森山さんが既に撮られていた作品を北村さんが編集したのですか?

北村 : いえ、違います。森山さんにお願いできることになって、どうせなら分厚いのを作るという話になって、そこから1年半とか2年ぐらいかけて森山さんが撮りためてくれた作品です。嬉しかったですよね。じゃあどうぞって過去の作品をチョイスするんじゃなくて、その本を作るためにゼロから撮り始めてくれているわけですから。

森山 : 過去のものじゃなくて自分自身がいま撮っている作品を見せたい、これから撮る写真で写真集を作ってもらいたいというのはハッキリあったね。それで小さな中古カメラを買って、「よしこれでこの一冊を作ろう」と勝手に決めて。

 それはちなみに何というカメラだったのですか?

森山 : もう忘れたねえ。あれはアサヒペンタックスだったかな。とにかく僕は小さいカメラしかダメなんで。ちょうどそれは僕が四谷三丁目に引っ越したばかりの頃だったので、この場所から広がっていく形で写真を撮ろうと。

北村 : あそこに移ってすぐだったんですか?

森山 : そうです。当然新宿エリアだから新宿も撮りますよね。で、その時に「今度作ってもらうのは、全部タテ位置写真でやりたい」と。ヨコ位置はなし。この中古カメラで、タテ位置だけでやりたいと言ったんです。

 撮影する内容や方向は北村さんと森山さんで話をした上で進めたのですか。

北村 : まったく話してないです。

森山 : 僕の場合、北村さんに限らずだけど、やるなら好きにしたら、という感じですね。

北村 : 最初は「1年くらい」という話だったんですけど、途中で森山さんがもうちょっと撮りたいと言ってくれて実質1年半とかかけて撮っていただきましたよね。

森山 : うん、それくらいかな。

北村 : だから編集も含めると2年くらいかかっているのかもしれないですね。撮り始めようと言ってから。



“2年間かけて撮った写真を一晩で編集するって、まさにビートニクだよね”

森山 : 写真をセレクトする時は、北村さんのところの会社のフロアに何百枚の写真をばーっと並べて、深夜までワーワー言いながらやったよね。

北村 : うちのプレスルームに紙を敷いて、そこに森山さんが持ってきた写真をだいたい800枚くらいですか、敷き詰めてみんなで印をつけて行って。だいたい400枚くらいにしようと思っていたから、決まったやつをまた並べて森山さんがチェックして。写真の順番を決めたり、グループを作ったりしたんですよね。

森山 : そうだったね。

北村 : 『赤Daido』の時は確か夕方から始めて、朝の9時くらいにはもう編集しちゃってましたよね。だから1年とか2年くらい撮り溜めた写真を一晩で作るっていう。それが楽しかったですよね?

森山 : うん。

北村 : お互いジャック・ケルアックだとか、ビートニクの文学にも憧れていた部分がありますから、「2年間かけて撮った写真を一晩で編集するって、まさにビートニクだよね。こういうのがカッコいいよな、北村くん」って、森山さんが言っていたのを思い出します。

 お聞きするだけでも大興奮の時間です。今だとPC上などでレイアウトしていると思うのですが、それを床に敷いてとかってもう……

北村 : アナログだよね(笑)。でも行為的にもすごく楽しい時間でしたね。

森山 : そういうことも含めてこの本は面白かったな。

 森山さんはいろんな編集者と一緒に写真集を作られていると思うのですが、北村さんの写真選びの特徴とか何か感じられたことはありますか?

森山 : そういう時はね、個人の特徴というよりも、その場に参加している数名から出てくるものなんだよね。

北村 : だいたいいつも僕と森山さん含めて4、5人でしたよね。

森山 : そうだったね。そういう時はそれぞれが、完成されたものじゃなくて、“断片”を並べているわけ。

北村 : ヨコ位置の写真は見開きで1枚だけど、タテ位置の作品の場合は最初に対向を決めて行って、この写真とこの写真の組み合わせがいいねとかやって。

 セレクトの時は全部プリントした状態でお持ちになったのですか。

森山 : そうそう。800枚とか。そしてみんなに好きに選んでいく。

 ある種答えのない作業ですよね。そこを4、5人が「こうだね!」ってなる瞬間は何か決め手があるのですか。

森山 : それは理屈じゃないよね。感覚的なもの。みなさんそれぞれ自分の感覚を持っていらっしゃるし、それで色々やっていくいうちに見えてくるんですよ、その本のあり方が。



夜な夜なの集いと“大道パテ”

北村 : 当時は森山さんの四谷のアトリエに僕と綿谷でよくお邪魔してて。

森山 : よく一緒にお酒飲んだよね。

北村 : 森山さんがワインとバケットとパテを作って待ってくれていたのですが、そのパテがすごく美味しくて。それをつまみに色んな話をして、いつも朝方まで飲んでましたよね。そういう時に色んな話をするんですよ。森山さんも酔っ払って綿谷と口論になって、そこから出てくる写真理論みたいなのもあったり。そこで色んな話を聞いていますから。そういうのがなかったら、ああやって一晩で何かを一つにまとめるというのはまず無理です。そのためだけに集まっていたら出来ない。他愛もない話を朝方まで飲んで口論しあう時間の中に、何かあるんですよ。

森山 : 何百枚も置いて写真を選んでいる時間だけじゃなくて、みんなでお酒飲んだり、ワーワー喋っていた、そういうことの総体があの本になったんですよ。

 お話を聞いているだけで興奮します。

北村 : ちなみにいま僕の周りは“大道パテ”って有名なんですよ。森山さんからレシピを教わって、うちのカミさんに作ってもらってたんです。お客さんが来た時にカミさんがそれを出すとみんな「これ美味い!」ってなって、「これは森山さんからレシピを教わった」というと、いつの間にかみんな“大道パテ”って呼ぶようになって(笑)。

森山 : そうなんだ。

 そのパテは森山さんが独自に開発したのですか?

森山 : いや、そんな大袈裟なもんじゃないですよ。自分で適当に作っただけです。

北村 : でもそれが美味いんだ。懐かしいなあ。

後編に続きます)