田名網敬一 尽きない想像力
2022.11.11

NANZUKA UNDERGROUND で個展「世界を映す鏡」を開催する86歳の巨匠にスペシャルインタビュー




Edit&Text by Yukihisa Takei(HONEYEE.COM)
Photo by TAWARA(MagNese)
Special Thanks NANZUKA UNDERGROUND


日本を代表するアーティスト田名網。イメージの洪水とも言えるような、そのカラフルでポップで、“サイケデリック”な作風は、世界からも注目され続けている。

1936年に生まれた田名網敬一は、現在86歳。その田名網による個展「世界を映す鏡」が、2022年11月12日(土)より所属ギャラリーであるNANZUKA UNDERGROUNDで開催される。そして11月15日(火)からはそのChap.2が3110NZ by LDH kitchenで、11月10日(水)から16日(水)までは渋谷PARCOのNANZUKA 2Gにおいて「Keiichi Tanaami x Parley for the Oceans」のポップアップが開催されるというまさに怒涛の展開になることも発表された。

世界を映す鏡 The Mirror Reflecting the World  ©Keiichi Tanaami Courtesy of the artist and NANZUKA

しかも今回の展示では、これまでの作風の作品に加え、コロナ禍においてパブロ・ピカソの模写に目覚めたという田名網の“新作”が300点以上(!)も展示されるという。田名網敬一のパワフルな作風は分かっていたが、その高齢にして、そのような圧倒的な数量の新作が展示されるという情報には目を疑った。

昨年HONEYEE.COMリローンチのタイミングで快く取材に応じてくれたNANZUKAのギャラリスト・南塚真史に取材を申し込むと、今回は東京にある田名網敬一のアトリエで取材が可能だという。

個展開催まで数日と迫る中、田名網敬一の制作拠点へと足を踏み入れると、そこには無数の田名網作品が随所に置かれ、これまでのコラボレーション作品などの“お宝”も所狭しに並んでいた。そしてそこには、数人のスタッフに囲まれて凛と立つ巨匠の姿があった。



僕の作品は“サイケデリック”ではない。

取材開始直後に少し出鼻を挫かれた。事前に準備して共有していた質問状の1つ目、「あの独特でサイケデリックな作風は、どのようにして築き上げてきたのでしょうか」と聞くと、田名網は即座に訂正した。

「僕は“サイケデリック”ってよく言われるけど、それは最初に訂正しておきたいんです。サイケデリックというのは1960年代にアメリカのサンフランシスコでドラッグカルチャーが生まれた時代に、マリファナとかLSDとかの薬物でトリップして、その状態を絵にしたものがロックミュージックのジャケットやポスターに使われるようになり、それを“サイケデリック”と呼ぶようになっていたもの。それとは僕は全く無関係なんです。僕は幼年期に戦争があって、空襲を体験し、爆弾が落ちたり照明弾を見たりした光景を見た残像を絵にしているので、それがそう見えるのかもしれませんが、厳密には僕の絵はサイケデリックとは違うものなんです」

― 大変失礼しました。サイケデリックはそのカルチャーを指すワードなのですね。2000年代頃、田名網先生の作品が一気に若い世代に広がりました。個人的にも(バンド)SUPER CARのジャケットに強く惹かれた記憶があります。その後もファッション誌やカルチャー誌でフォーカスされることも多かったと記憶しますが、アーティストとしてのキャリアもすでに積まれていたなかで、田名網先生はどのような心中だったのでしょうか。

「僕は学校も武蔵野美術大学のデザイン科ですし、最初は博報堂に就職したり、長年広告やグラフィックデザインをやっていたんですね。40代の中頃に仕事のし過ぎで身体を壊したこともあって、“転身”して自分の好きなアート活動に力を入れるようになりましたが、その後もコラボレーションみたいな仕事は多かったんです。だからそのスタンスが変わっただけで、自分としては違和感もなく、ごく普通に仕事としてやっていました。でもその頃からかなり画集などが売れるようになったりして、ああ、そうなのかとは思いましたけどね」



NANZUKA UNDERGROUNDとの出会い

― 長年の専属ギャラリーであるNANZUKAの南塚さんとのお付き合いはどのように始まったのでしょうか?(NANZUKAは2005年に設立)

「僕が宇川(直宏)くんと知り合いだったから、その紹介でしたね。当初南塚くんは宇川くんとスペースを共有していたんです。渋谷のビルの地下で、宇川くんが今のDOMMUNEの前身となるMIXCROOFFICEというスタジオをやっていたんですよ。南塚くんは、その隣でNANZUKA UNDERGROUNDをやっていました」

― NANZUKAは今や世界から注目されるギャラリーになりました。しかし当初はまだ実績もない若きギャラリストだったと思うのですが、なぜ自らの作品を任せるお気持ちになったのでしょうか。

「確かに実績は全然なかったですよね。でも当初から本人の意気込みはすごくあった。当時僕はある老舗の画廊に所属していたけど、色々あってやめたんです。僕が日本に帰ってきたばかりの草間彌生さんや合田佐和子さんを画廊に紹介したら、画廊と作家で大ゲンカになってしまって。煽りを喰らって僕もクビになった(笑)。そういう時期に南塚くんに知り合って、ギャラリストとアーティストの関係がずっと続いています」

―では、南塚さんはある意味ラッキーというか(笑)。

「契約してすぐに東京アートフェアに南塚くんが出展したのですが、すぐに僕の大きい絵が2枚売れたと。『先生、売れました!』ってものすごく喜んでいて、その時初めて南塚くんの笑顔を見た感じがします(笑)。南塚くんはそういう経験なかったから、びっくりしたんだろうね」

― 近年NANZUKAを含め、日本のアートマーケットが非常に盛り上がっています。金銭的な部分も含めての現象でもありますが、そこはどうお感じになられていますか?

「ちゃんとしたマーケットが出来て、販売もコレクターもきっちりしたところが出来た印象はあります。アジア系のコレクターはみんなすごく若いし。ただ、アメリカや欧米の美術界とはちょっと違う。日本はまだ過渡期だから、どさくさ紛れにやっているようなところもそれなりの商売になっているのは、はっきり言ってあまり良くない。でも南塚くんのところとか、若い人がやっているいくつかの画廊はすごく良くなっていますけどね」



ファッションと田名網作品

― 田名網先生の作品は、長年ファッションのマーケットからも注目されています。BE@RBRICKやadidasなどとのコラボレーションもありましたが、そこから得られたことはありますか?

「あまり改めて考えたことはないですけど、タブロー(キャンバス)に向かうことと感覚的には同列で考えていますね。これはファッションの仕事、これはファインアートの仕事、として区別して考えていないです」

― 例えば「キャンバスがBE@RBRICKになった」という感覚でしょうか。

「そう。洋服で言えば“動くキャンバス”ですよね。アーティストによっては、『そういう仕事はやらない方がいい』とかって言う人もいるわけですよね。純粋に絵を売ろうとした時に挿絵とかを描いていると、値段が下がるみたいなことを言う人は相対的に多いですよ」

― アーティストとしての価値が下がってしまう、と。でも田名網先生の中では、そこは関係なかったわけですね。

「僕はそういう現実があるのであれば、それはもう受け入れるという感じでしたね」



ピカソを模写し続けて分かったこと

― 今回の個展は、田名網先生による300点以上のピカソの模写が展覧会のコアになるとお聞きしています。そこに没入した経緯をお聞かせいただけますか?

「コロナになって3年くらいになりますけど、突然展覧会とかいろんな予定がキャンセルになって、結構ヒマになっちゃったんですよ。何かやらなきゃな、とは考えていたんだけど、なかなかいい考えが浮かばなくて。締め切りも無くなった絵を急いで描くというのも気が乗らなくて1ヶ月くらいが過ぎたある時、以前に手塚治虫さんの『アトム展』に向けて描いた自分の作品をもう一度見返したんです」

― その作品がこれですね。

「僕はピカソという画家は元々好きで、この絵はピカソの描いた『母子像』を元に、その子供をアトムに置き換えて描いたんです。この模写をもう一回描いてみようかなというのが始まりでした。10枚くらい描いたら止めるつもりだったんだけど、面白くて、1ヶ月でも2ヶ月でも延々と描いているうちにすぐに100枚くらいになっちゃった。だんだん描いているうちにピカソの絵のマジックというか、考え方とか描写方とか、いろんなことが分かってくるんですよ。それでますます面白くなって、1枚の絵に全く違う時代のピカソ作品を合わせてみようとか、ピカソの絵を見ないでピカソの絵を描いてみようとかどんどん広がって」

― 忠実な模写というより、ピカソのエッセンスのようなものを描こうとされたわけですね。

「そう。調べていくと分かるんだけど、ピカソはすごく太い筆で描いていたんです。僕は藤田嗣治が極細の面相筆で描いていた作品も好きなので、じゃあ僕も面相筆で描いたらどうだろうと。そうすると全く違うものが出来上がって来たんですよ。ピカソが太い筆で1回で描いたものを、僕は全部50回くらい筆を動かして線にしたのがあの作品シリーズなんです」

― 先ほどの「ピカソが分かってくる」というのは、どういうことなのでしょうか。

「まずピカソはなぜ生涯4万点もの作品を残せたのかという疑問があるんです。日本の絵描きが生涯描いても2千点描けた人はすごいレベルです。でもそこにはあまりも開きがあるじゃないですか。結局それはピカソが早く描けたということなのですが、なぜ早いのかを研究してみると、ピカソはキャンバスに直に絵の具を置いて描いたり、絵を乾かさずに一気に描いていたことが分かってきました」

― それは田名網先生の作品の作り方とは全く違うわけですよね。

「全然違います。ピカソはメンタル的にではなく、スポーツのように肉体的に絵を描いた人なんです」

― ちなみに模写は1枚どれくらいのスピードで描き上げておられるのですか?

「だいたい3日ですね。8枚くらいを並行して描いています。並行して描いて、8枚同時に終わる」



“事件”から創作は始まる

― ピカソが生涯4万点、一般的な画家が2千点とおっしゃっていましたが、田名網先生の作品はこれまででどれくらいになるのでしょうか?

「僕は勘定したことはないけれど、2千点は超えているかな」

― 今回のピカソの模写だけでも300点あるわけですからね(笑)。しかし4万点という数字に対峙してみると、一人の作家としてどうお感じになりますか?

「やっぱり異次元ですよ。ピカソは神格化されていた時代も長くあるけど、最近は『今さらピカソなんて』という人も多い。僕も一時期そう思っていたけど、今回ピカソを改めて描いてみて、ピカソは凄いと思うようになりましたよね。やっぱり大した巨人なのだなと」

―田名網先生がピカソ作品を模写したことで、ピカソの総体ではなく、点で見た作品としても凄いと感じられるというのは説得力があります。ただ、田名網先生がそれまで築き上げてきたものとは全く別のベクトルの創作ですよね。そこはどのように消化されたのでしょうか。

「僕が日常的に描いている作風はそれはそれでやるんですけど、いろんな方法論が次々に出てくるので、絶えず自問自答はしているんです。その中でたまたま不可抗力と言えるコロナがあって、ピカソをやろうとなったけど、そういう一つの“事件”があることによって人間ってポーンと変わるわけですよね。期せずして巡り会ったけど、そういうのは創作にとって必要なことなんですよ」



今も「朝から晩まで絵を描き続けている」

― 田名網先生は「アートや創作に年齢はない」ということを自ら証明されている印象があります。創作活動を続けられるパワーの源は何でしょうか。

「あまり考えたことはないけど、70歳くらいになった時に、一般的に“70歳”というイメージってあるじゃないですか。そろそろ絵を描くのが苦痛になるかなとか、制作意欲が衰えるとか、意欲はあっても僕の体力が持たなくなるかなとか、いろんな問題にブチ当たるだろうと思いました。でも、75歳になっても85歳になっても、そして最近はもう考えなくなっちゃったけど、そういうのにあまりブチ当たらなかったんです。40代くらいから同じようなペースでやってきたけど、今までの自分の人生の中で、今が一番やっているのかもしれないと思いますね」

― 今が一番描いているというのは驚きです。

「例えば足が痛い、腰が痛い、の状態では大きい絵は絶対に描けないんです。だから絵描きが老年になってくるとみんな絵が小さくなってくる。ダリもそうだし、ほとんどの画家はみんなそう。だけど僕は今でも大きい絵を普通に作るんだけど、肉体的に苦しいとは全然思わないんです。だからこの調子だとしばらく大丈夫かな、という状態ですね」

― 肉体的なものもさることながら、創作意欲も衰えないわけですね。

「若い時に僕がもっとやっていれば、今はそんなに描かなくなっていたのかもしれない。多分僕は若い時に怠けていたから、その分、歳を取ってからやっているだけかもしれないですよ」

― いやいや、そんなことはないと思います(笑)。ちなみに現在は一日の創作活動にかける時間はどれくらいですか?

「ほとんどですよ。僕は他の趣味はないから、朝から夜までやっているというか。今ここは仕事場ですけど、向かいの部屋に自宅があるんです。夕方家に帰って、家でも寝るまで別のものを描いている(笑)。だからほとんど起きている時は描いていますよ」



Profile

田名網敬一 / Keiichi Tanaami

1936年生まれ。幼少期に東京大空襲を経験する。絵を志し、武蔵野美術大学 デザイン科に進学。広告代理店に勤務したのちにグラフィックデザイナー、イラストレーターとして活躍。大病を患い、回復後の40代中盤でアーティストに転向。2000年代頃に宇川直宏などが多数のメディアで紹介したことから若い世代からも一躍脚光を集める。以降その作品は世界的な評価を得て、現在に至る。ファッション関連のブランドとのコラボレーションも多数。NANZUKA所属。

https://keiichitanaami.com/jp/
https://www.instagram.com/keiichitanaami_official/
https://nanzuka.com
https://www.instagram.com/nanzukaunderground/



[編集後記]

2000年代に田名網敬一さんというアーティストの存在を知った時に衝撃を受けた。とにかくカッコいいと思った。NANZUKAの所属アーティストであることは存じ上げていたが、こんなに多数の新作を携えた個展を見ることはできるとは思わなかったし、まさか取材が叶うとも思ってもいなかった。全てが宝の山のように見えるアトリエは、見れば見るほどクラクラした。そしてその田名網先生は、その部屋で今最も精力的に創作を続けている。すべてが驚きの連続の取材は、またしても編集者冥利に尽きるものだった。(武井)